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歴史

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「神代」

 姫島は古事記や日本書紀に登場する島で、神々の伝説が数多く語り継がれています。
 古事記によると、伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の二柱の神は国生みにさいし、大島を生み、次に女(ひめ)島(じま)を生んだとあり、この女島が姫島のことを指します。
 また、日本書紀によると、垂仁(すいにん)天皇の時代、意富加羅国(おぼからのくに・今の韓国南部)の王子が白い石から生まれた美女と結婚しようとしたが、美女はそれを逃れ姫島に辿り着き、比売語曽の神となった、と記されています。これが姫島の名のはじまりです。
 姫島にはその比売語曽神の伝説が今でも姫島七不思議として残っており、神の伝説をたどることができます。
 また、貴重な黒曜石が産出するため、縄文時代には瀬戸内海を通じて人々との交易がおこなわれるなど、古くから海上交通の要所として姫島が栄えていたことで、国東半島に都の様々な技術、文化が伝わったと推測されます。

 同じく神代の時代を体感できる宇佐市。
 全ての神を仏へと導く神「八幡神」を祀る宇佐神宮は、現在全国4万を超える八幡社の総本宮です。『日本書紀』によると宇佐の地には神代の時代に比売大神が降臨されたとあります。比売大神は地主神として祀られ崇拝されてきました。さらに、即位前の神武天皇が宇佐に立寄り、この時に菟狭津彦、菟狭津媛がおむかえしたと『古事記』には記されています。
 時を経て大和朝廷が統治する一番西の端にあった御許山に、八幡神が示現されます。八幡神は、当時日向・大隅地方に勢力をふるっていた隼人の反乱を鎮めたことで、朝廷から崇敬されるようになりますが、宇佐では病気や飢饉がおこったことから、隼人の祟りと信じられるようになりました。
 そこで殺生を悔いた八幡神は、仏教の力に救いを求め、境内に神宮寺として弥勒寺を建立し、隼人の霊をやどした蜷や蛤を和間の海に放ち供養する放生会を行うことにしました。これが神仏習合文化の発祥とされています。
 このように宇佐神宮は世界的宗教である仏教と、我が国固有の神道が融合した日本ならではの文化「神仏習合」発祥の地であり、この思想のもとに仏教と八幡信仰が全国へ広められていきました。

「古代」

 宇佐神宮の神「八幡神」の化身「仁門菩薩(八幡大菩薩)」が開いたとのいわれが残る国東半島の山々の神社仏閣は、宇佐神宮の神宮寺であった弥勒寺の僧達の修行の場として成立し、神仏習合の名残を残す独特の山岳仏教文化(六郷満山文化)を形成しています。また、国宝阿弥陀堂を有する富貴寺をはじめとする優美な里の寺は宇佐神宮の宮司達が作ったものとされ、当時九州の荘園の1/3を所領し、全国有数の荘園領主であった宇佐神宮の権勢を偲ばせます。

「中世」

 宇佐八幡神がたびたび国家の危機を救ったことから、朝廷は宇佐宮に対し多くの領地を与えました。宇佐神宮、弥勒寺が最も繁栄していた12世紀には九州の約3分の1の荘園を持ち、太宰府の安楽寺(太宰府天満宮)とならぶ、九州最大の荘園領主でした。
 宇佐神宮の荘園であった田染荘は、現在でも約1,000年前の荘園の景観をそのままの姿で残しており、国の重要文化的景観にも指定されています。
 武士が台頭しはじめた、中世に入っても戦いの神としてあがめられた宇佐八幡神は、源氏の庇護のもと、その権勢をふるい、最盛期である12世紀には九州の約3分の1の荘園を持つに至り、太宰府の安楽寺(太宰府天満宮)とならぶ、九州最大の荘園領主でした。その荘園の一つである豊後高田市の田染荘は、現在でも約1,000年前の荘園の景観をそのままの姿で残しており、国の重要文化的景観にも指定されています。しかしながら、室町、戦国時代となり武士が時代の主役になるとともに、宇佐神宮の荘園も簒奪されていき、その影響力は薄れていったのでした。

「近世」

 江戸時代になると大分県は小藩分立の時代を迎えます。このため、江戸時代の趣を残す近世城下町が「中津市」「杵築市」「日出町」に残っており、それぞれ特色のある城下町を巡る「城下町三都巡り」が楽しめます

坂の城下町 杵築
 北と南の武家屋敷に商人の町が挟まれたサンドイッチ型城下町の「杵築」は、戦国時代から江戸時代まで続いた城下町。小笠原氏によって町割が始まり、正保2年(1645)松平氏が城主となって町割が完成した3万2000石の城下町でした。
 石畳の坂道が多く残り、「勘定場の坂」「酢屋の坂」「志保屋の坂」「番所の坂」など13もの坂に名前があることから「坂道の城下町」ともいわれています。その坂の近くには、江戸時代の武家屋敷や商人の町、寺町など、城下町ならではの古い町並みが今も残っています。
海の城下町 日出
 平安時代から続く天然の良港を持ち古くから港町として栄えたこの地に、関ヶ原合戦の翌慶長6(1601)年、豊臣秀吉の正室ねねの甥にあたる木下延俊が封ぜられて起こした日出藩。延俊は日出に入った翌年に日出城を完成させました。その設計は義兄に当たる中津城主細川忠興が手がけています。本丸は別府湾を望む高台にあり、海に囲まれた城下町となっています。
 日出町にある深江地区は別府湾の奥、それも入り組んだ入江地形であり、昔から近隣の船が風待ちをしたところでした。それゆえ深江湾の周辺は速見郡随一と呼ばれる賑わいを呈し今も千円普請といわれる立派な商家がたくさん往時の姿をとどめています。一歩足を踏み入れればまるで江戸時代にタイムスリップした気分です。
 ここに日出藩三代藩主、木下俊長公が参勤交代用の帆船の「潮待ち」「風待ち」のための宿泊施設として設けたのが「襟江亭(きんこうてい)」。藩主別宅として、また来客接待所としての役割も持ち、伊能忠敬も立ち寄ったとされます。
学びの城下町 中津
 中津藩は、前野良沢から福澤諭吉といった多くの蘭学者を輩出し、日本の洋学の近代化の為に多大な貢献をした学びの城下町です。
 中津城下町の基礎を作ったのは、九州平定を成し遂げた豊臣秀吉の参謀:黒田官兵衛孝高(如水)です。その後細川忠興(ガラシャの夫)、小笠原氏、奧平氏と領主が変わり、堅固な城下町をつくり上げていきます
 1717年から廃藩置県までの155年間を治めた奥平氏は、特に蘭学を推進し、藩札の発行、倹約令の発布などの武士社会のシステムを完成させていきます。
 そうした中津藩からは、杉田玄白らと共に「解体新書」を出版し、近代医学の発展に貢献した前野良沢や下級武士の家に生まれ、武士制度に反発し文明開化の指導者となった福澤諭吉といった多くの蘭学者が世に輩出されました。医学関係の史料などを展示する史料館となっている中津藩医の旧宅や福澤諭吉が寝起きした旧居の残る、学問の薫る城下町です。

「近代」

 江戸時代が終わり、天皇を中心とした新しい国家体制を築くことを目指した明治時代から始まる、大正、昭和という近代。
 明治4年の別府港開港以来温泉地として飛躍的に発展した別府温泉。第二次世界大戦の戦災を免れた別府には、歴史的に貴重な近代遺産や路地裏、共同湯文化が沢山残っています。
 湯治場として栄えた鉄輪温泉、明礬温泉、堀田温泉、亀川温泉、鉄輪とともに別府温泉発祥の地と呼ばれる浜脇温泉、醍醐天皇も入浴したと言われる由緒ある柴石温泉、鎌倉時代から続き海抜150mの場所にある観海寺温泉の8つの温泉地を総称して現在は別府八湯(はっとう)と呼ばれています。
 大正から昭和初期にかけては全国の財界人による別荘や私邸、伝統建築による温泉施設など数多くの文化遺産が建築され、今なおその姿を残しています。

「昭和」

 国東半島一の賑やかな"お町"として栄えた豊後高田の中心商店街。豊後高田「昭和の町」は、この商店街が最後に元気だった時代、昭和30年代の賑わいをもう一度よみがえらせようという願いをこめて平成13年からまちづくりに取り組みました。人通りもまばらに、活気を失ってしまいましたが明るい未来を信じて、隣近所が肩を寄せあい、助けあいながら生きていました。
 豊かで便利になったとはいえ、平成の今に比べて、幸せが実感できた時代、生きる手ごたえがあった時代。
 時は物の形も人の心もすっかり変えてしまいましたが、豊後高田「昭和の町」には変わらなくてよかった形や心が今なお残されています。平成の今、懐かしさにしてしまった物も人も、ここではまだ大切に守り伝えられています。

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